わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、私の民イスラエルの人々をエジプトの国から持ちびき出す。
神さまのイスラエル救出の方策とは、10の災いをエジプトの国に下す、というものでした。エジプトの国とその王はなぜ10回もの大きな災害を被らなければならなかったのでしょうか。上記には、大いなる審判、とあります。ファラオの罪に対する神さまからの罰だというのでしょうか。しかしそれだと、神さまがファラオの心を頑なにされる意味が分かりません。ファラオと大勢の市井のエジプト人が同等の罰を受ける、というのも不自然です。
旧約聖書には、これによってあなたがたはわたしが主であることを知るようになる、と書かれています。この言葉を語られる神さまのお心を正しく察する、という信仰がこの物語の読者に求められているのではないでしょうか。
「災い」がもたらす苦しさ、悲しさ、痛み、辛さ…。人によってその質も量も全く異なります。たとえ同じ災いを経験したとしても、それを肯定的に受容するか、否定的に拒絶するか、無関心に放置するか、決断と対応は皆違って当然です。そんな相対的な世界に生きる私たち信仰者が、災いや試練や悲嘆を通る時覚えたいのです。神さまは、私たちの心を時に頑なに時に柔軟になさりつつ、私たちが変わっていって主の栄光を現わす者となるその時まで忍耐して待っていてくださるのだということを。