先祖が仕えていた神々でも、アモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを今日自分で選びなさい。驚くべきチャレンジングな言葉です。このような選択を迫った指導者は、ヨシュア以外聖書には出て来ません。

 彼は人々の目の前にイスラエルの神と異教の神々とを並べて、さぁ仕えたいと思う神を選びなさい、と選択の自由を人々に与えているのではないのです。そうではなく彼は、異教の神々を選べるものなら選んでみよ、あなた方にそれを選べるはずがない!と断定する、断言するのです。迫力満点の言葉、人を威圧する言葉です。そして間髪を入れずにただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。と言い切る。とても効果的な言葉使いに感服します。

 これらのヨシュアの言葉に、イスラエルの人々がどれほど圧倒されたか。彼らの言葉を読むとよく分かります。ヨシュアが敢えて彼らを試すような言葉や、異教の神へと誘うような言葉、彼らの信仰を否定するようなことまで言っても、イスラエルはすぐさま全否定しています。主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。いいえ、わたしたちは主を礼拝します。わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います…。

 額に汗し、口角泡を飛ばして必死に神さまへの信仰を誓うイスラエルを想像すると、思わず笑いがこみ上げて来ます。ヨシュアは、イスラエルにそこまで言わせてしまう話術を心得ていたのでしょう。モーセはかつて神さまから召しを受けた時、「全く私は口が重く、舌の重い者なにです」と断って、神さまを怒らせてしまいました。彼に比べ、指導力でいささか評価の低い印象のヨシュアですが、話術にかけては卓越していたのでしょう。神さまは実に鮮やかに、適材を適所にお用いになるのです。