どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。49節
12歳のイエス少年が、私の父は創造主である神だと正しく認識されていたかどうかは多分に懐疑的です。むしろこの場面に聖霊が働かれたと解釈するほうが自然ではないでしょうか。
イエスさまはヨハネからバプテスマを受けられてすぐ、悪魔から3つの誘惑を受けられました。悪魔はなぜイエスさまを誘惑したのでしょうか。悪魔は100%人間としてこの世界に来られたイエスさまに神の力を行使させることでイエスさまの神性を人間に見せつけ、そもそも神と人との交わりなど有り得ないと人を失望させ、神さまから人間を完全に引き離すことでした。
しかしイエスさまは神の力を一切使わず、ただ聖書の言葉によって、悪魔の誘惑を退けられました。それはすなわち私たち人間も、聖書のみ言葉によって悪魔に勝利することができる、ということの確かな証明であったのです。事ほど左様に、イエスさまは徹底して人間であろうとなさり、実際に100%人間であられたのです。そしてマリアもヨセフも、イエスさまを人間の子であると疑わずに育てただろうと私は思います。
神さまは、しばしばご自身のみ旨を遂行されるために、人の心の目を見えなくさせ、霊の耳を塞がれる方であることを、私たちは聖書を読んで知らされるのです。人間の目の不確かさや、記憶の曖昧さの故ではなく、神さまによる業、神さまの意思遂行のための仕業と解釈すべきだと、私は思うのです。