「ローマ書8章は指輪の宝石の部分だ」と評されるに相応しい文章が続きます。今朝のテキストは「希望」について語られている部分です。
見えるものに対する希望は希望ではありません。(24b)
改めて「そうだ!」と思いました。コロナ危機が起こり世界がウイルスと戦うために協力し合うかと思いきや他国に侵攻して戦争を始めた国、民衆への圧迫を一層強めた国、ミサイルを乱発する国…。ほんの一握りの為政者が世界を混乱させ経済危機も加わって世界全体が仄暗く。「予想」と「希望」が同義語に聞こえ始めていたかも知れないと思います。
シビアな将来像が「予想」で能天気な将来像が「希望」。もしくは予想は人間が頭で考えることで希望は神さまに委ねて待ち望むこと。その信仰者でさえ希望を持つことを躊躇してしまうような時代なんですねぇ現代は。
しかしキリスト教の歴史を繙いてみるとキリスト教徒にとって明るい時代などありませんでした。それなのに信仰の父祖たちは希望を捨てませんでした。
何故なら約束をなさった方は真実な方であると信じていたから(ヘブライ11:13)。この世に居る間に約束されたものを手に入れなかったけれど、はるかにそれを見て喜びの声を上げたとも。潔くて素敵です。今よりも数倍もの暗闇を歩きながらも行先を間違わなかったのは正しい目的を信仰の目で見ていたからでしょう。
私たちもパウロの言葉に背中を押され見えないものに目を注いで大胆に一歩を踏み出しましょう。私たちには信仰の輩がある。身近かに「希望」がいてくれるのですから。