ローマ書に通底するテーマの一つは「幸い」であると言われます。福音は、人が自分の人生を「幸い」だと感じ喜んで元気に生きていくためのコツを教える書物、と言えるかも知れません。3章7節8節のダビデの詩の中にも「幸い」という言葉が2度記されています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は幸い」「主から罪があると見做されない人は幸い」。この部分だけを読むと大きな誤解を招いてしまいそうですが、自分の罪に泣き、神さまの前に悔い砕かれて頭を垂れる人にとっては真に福音の到来です。しかし聖書がいう「罪」は、聖書によってしか自覚されません。そしてその聖書は字面を追うだけでは何が書いてあるのかなかなか理解出来ないのです…。
パウロは今朝のテキストにおいて「幸い」を割礼論から説こうとします。
ユダヤ人にとって割礼は「神の民であることのしるし」でした。義とされた根拠が肉体に刻まれている、ということです。しかしイエスさまに出会ったパウロは体のしるしでなく心に刻まれたしるしこそ本当の割礼だと言い、心に割礼を受けなさい、イエス・キリストを私の神と信じる信仰を持ちなさい、と勧めます。そしてそのように人生を生き抜いたモデルとしてアブラハムを挙げます。神さまはアブラハムに、主を信じる信仰をお認めになったゆえに、彼と彼の子孫への割礼を命じられました。割礼が信仰の条件ではないのです。でもユダヤ人は割礼を信仰者になる条件にした。そして誇った。ローマの教会はこのことで混乱したようです。私たちもバプテスマを受けたからクリスチャンだと言います。でも信仰の内容が伴わないとしたら・・・。