7月はヤコブ書を読みます。ヤコブ書は、主の兄弟ヤコブがその心にご復活の主を映しつつ、時に生前の兄の言葉を思い出し息づかいや温もりまでもその身に感じつつ、したためた痛みと涙の信仰告白であると私なりに受け止めて読みました。
伝道者パウロ。初代イスラエルの王サウロと同じ名前を名乗っていた頃彼はユダヤ教の教師でありキリスト者を迫害する者でした。その彼がご復活の主に出会って回心に導かれた。キリスト教が世界宗教となるために彼が担った役割は決して小さなものではありませんでした。そのバイタリティの原動領が何だったのか、それは過去の過ちの記憶、痛み…、そのようなものではなかったかと私は思うのです。
主の兄弟ヤコブの回心もパウロと同じような経緯を辿っています。人にとって過去の記憶、分けても過ちや失敗、悲しみや痛み、恥や怒りの記憶は早く忘れ去りたい、消し去ってなかったことにしたいものです。しかし神さまは、パウロやヤコブのイエスさまへの背信の記憶を彼らの宝とされたのだと思うのです。負の記憶、痛みと羞恥を彼らの中から取り除かないことで彼らを一層の信仰の高みへと導かれたのではないかと想像するのです。
少しでも過ちを償いたいと思うのは人間の性というものではないでしょうか。過去を変えることが出来ない以上、よい未来のために二度と同じ過ちは犯すまい、より良く生きたい、そして信仰者なら残りの人生の全てを主に献げたいと願ったとしても、そしてそのように生きたとしても不思議ではありません。