人生のターニングポイントとはどのような時にやってくるのでしょうか。
今朝のテキストは「神の民イスラエルの民族的ターニングポイント」がテーマです。新共同訳聖書で「エルサレムの背信」という小見出しが付けられているエゼキエル書16章には、捨てられた嬰児エルサレムを神さまが顧られ、掌中の珠のごとく慈しみ育てられたこと、それにも拘わらず成長につれて傲慢になり神さまの期待に反して果てしなく堕落していくエルサレム、それを激しく怒りつつも嘆き悲しまれる神さま、そして姦淫(偶像礼拝)の罪に対する裁きの預言、が、強烈な言葉で綴られています。16章に於いてエルサレムに象徴される神の民イスラエルのターニングポイントは、自らの目に正しいと信じて行って来たことが実は主なる神さまに対する背信の大罪であったことに気づいた時、でした。
では彼らはどうやってその罪に気づいたのでしょうか。それは、彼らが「永遠に不滅」と信じて疑わなかった都エルサレムが異民族に侵略され、神殿が陵辱され破壊され、多くの同胞が捕囚として侵略者バビロニヤの国に連行されて行ったことによってでした。敗戦の苦しみもあったでしょう。
しかしそれ以上に、彼らは神の民である誇りとアイデンティティを否定され嘲弄されて、霊肉を支えていた柱を失ってしまったのでした。自分自身を失って初めてイスラエルは自分の「正体」を見た、「本性」を知ったのだと思います。言い換えるなら、人はここまで破壊されなければ変われないということなのだと思います。