未だに6章11節にこだわる人があるでしょうか。そういう私自身が長い間こだわっていました。
口語訳聖書では11節は、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。と訳されています。この最後の、認むべきである。新共同訳だと、考えなさい。この言葉はパウロの読者に対するかなり強い指示です。私などが「~すべきだ」「~なさい」などと言えばたちまち何かが飛んできそうなほどの…。
私たち読者はおそらく誰もが、自分は罪に対して死んだ、神に生きている、堂々とそのようには宣言できない、脛に傷を持つ身なのだと思うのです。
さて、今朝のテキストにおいてパウロは、体という言葉が人間の総体を表す、霊的な部分も肉的な部分も、目に見える部分も見えない部分もすべて含めて体、と言う概念を示しています。
だから私たちは、たとえ霊的な面では「罪に死んで神の恵みに生きるようになった」と納得できても、肉的な面では相変わらず罪を犯し続けているという現実のために、宣言すると自己分裂を起こしてしまうのではないか、そんな気持ちになるのです。
それでもなお私たちに、そう認めよ、そう考えよ、と指令を出すパウロ自身、実は霊と肉との激しい葛藤を耐え抜いた人でした。その証しが7章です。壮絶な信仰の闘いを舐めたパウロであればこそ、恵みの福音に達し得た時の感激、感謝、喜び…を語らないでは居られなかったのでしょう。
7章を読んでパウロにシンパシーを覚える人があるかも知れません。ローマ書が読みやすくなるかも知れません。そうだと素敵ですね!