信仰によって義とされた者たちへの恵みの賜物としての平和、喜び、希望、愛…。それらの確かさがひとえにイエスさまの十字架の死によることを熱く語ってきたパウロは12節、このようなわけでと、唐突に人間の罪と死の関係について語り出します。どのような訳で、なのかこの接続詞が何と何をつなぐのかがよく分かりません。そう感じるのは私だけではないようで、複数の解説書にも同じようなことが書かれていて少しほっとしたり一層混乱したり…。ある本には「12節以下はキリスト教の歴史の上で最もたくさんの議論を生み出したパウロの言葉」だとありました。
一人の人によって。この一人の人もいきなりの登場です。これは一体誰なのか。14節にアダムという名前が出て来ます。創世記に登場するアダムは人類の始祖でありそして確かに最初の罪人でした。パウロは、この人の罪によって死が世に入り込み、すべての人が死ぬように定められた、と言います。私はこの記述から、罪が支払う報酬は死です、というローマ書6章23節を思いました。人は皆必ず死ぬということは誰にとっても疑いようのない事実ですが、その理由が存命中の「罪」であると知っている人は果たしてどれくらいいるでしょうか。大抵、人は生まれて成長し歳をとって肉体が朽ちて命が果てる、との生物学的理由を挙げるのではないか。私は罪人だ、とはキリスト者の常套句です。しかし罪の故に人が死ぬこと、罪がそれほど恐ろしいこと、を自覚している信仰者が果たしてどれくらい居るでしょうか…。