ルカ18章18から23節。マタイとマルコはこの記事の並行箇所で、この議員が「悲しみながら立ち去った」と告げています。この議員こそ現在の私たち。大金持ちではないにしろイエスさまの目からすれば満ち足りた側にいる人間の代表であることは確かです。

 私は敢えて、立ち去ったとは書いていないルカのテキストを選びました。悲しくても私たちは立ち去ってはいけないのだとディア神父が言うからです。持ち物を売り払い、そのお金を貧しい人たちにすべて差し出す勇気がないので、あの議員のように立ち去ってしまいたい。

 しかしディア神父はそんな私たちに、イエスさまの傍に留まって自分の傷や破れ、脆弱性を認めなさいと言います。つまりまず霊的に貧しくなるようにと勧めるのです。更に富や力や特権や所有など、知らない間に偶像として崇めていたものを自分から遠ざけて物質的にも貧しくなるように、極端にも「無」になるようにと勧めるのです。無になることに於いてのみ人はイエスさまに聴き従っていけるのだと。しかし、一切を捨てて無になることなど出来ない。それがほとんどの人の本音ではないでしょうか。

 今朝の招詞、箴言30章8節b。貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンでわたしを養ってください。私のために定められたパン。これは時代によってさらに様々な状況によって質的にも量的にも異なって当然ではないかと思うのです。例えば、現代は物が有り余りながらも裸一貫では誰も生きてはいけません。社会が複雑になるほどにそのような生き方は不可能になっていくのです。

 ルカが記す議員のように、自分の財産を隣人に分け与えられない自分に悲しむよりも、生かされている事実に感謝して、神さまの前に慎ましく謙虚生きること。そのように生きようと努力すること。その生き方がやがては財産からも自分自身からも私を解放してくれること。心の貧しい人とはこのように生きる人だと言うのです。