法律からルールまでおよそ「決まり事」とよばれるものはいったい何のためにあるのでしょうか。
例えば世間では「校則の見直し」についての議論が熱を帯びてきたようです。ようやく!?の感有りですが、考えてみれば私が中高生の頃には「校則」を批判するという発想すらありませんでした。せいぜい制服廃止に賛成したくらいのもの。
ユダヤ人たちは「律法」を守れば天の国に入れると信じてひたすらその遵守に励みました。しかし十戒の1つでも守れなければ、1度でも違反したなら即アウト!なのです。
逆に「法は破るためにある」などと嘯く人もたまにあります。カッコつけてるつもりでしょうが精神的幼稚さが透けて見えてこっちが恥ずかしい…。パウロはイエスさまに出会って180度の人生の転換を経験する以前はガッチガチの律法主義者でした。
辞書によれば「法」とは、社会の秩序を維持するために国や為政者が決めて人に強制する規範、とあります。平和に共同生活を営むための決め事であって必要だとは思うものの好ましいとは思えません。
パウロも生活や言動、思想、人生までも様々に規定して人をその下に束縛しようとする「法」は何も良い実を結ばないと言います。大胆にも律法から解放されるべきだと言います。
たとえ律法に従わなくても決して野放しの無作法者にならず、返って人々から尊敬され高潔で心豊かな日々を送り、何より神さまに喜ばれる実を次々と結んでいく生き方を彼は心得ていました。そして私たちキリスト者に、律法から解放されて霊に生きる生き方を推奨するのです。