神さまに誘われて天幕から出て見ればそこは満天の星。アブラムの思い煩いが一つひとつ消えて行き、神さまが共に居てくださるという確かさだけが彼の心にゆっくりと満ちていったことでしょう。

アブラムは主を信じた。1節

 彼は確信したのだと思います。神さまは何時如何なる時も私と共に居て下さる方であるということを。アブラムの素晴らしさは、神さまを感じたと思った時自らを取り巻くしがらみや現実や、自己主張したがる自分からさっさと手を離して神さまを見上げたことだと思います。神さま信じます。あなたを信じさせてください。言葉は何でも良いのです。感じたままを言葉にしたのでした。確信が持てなくても、とにかく応答したのでした。

 私たちも事あるごとに神さまの約束を、祈りを通し聖書を通して繰り返し聞いて来ました。その時私はどうしたのか、思い出してみましょう。ぐずぐず時間をかけて黙想したりした時よりも反射的に応答した時ほど、実際に一歩前へと踏み出せたのではなかったでしょうか。聖書の言葉を取り込んで無暗にひねり回したりしているうちについ自分に都合のよい味付けをしたりしてしまいます。

 感動して単純に主告白をしたアブラム。その感性と夜の詩人の感動と、相通じるものがあるように思います。

あなたの天を、あなたの指の業を
わたしは仰ぎます。
月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは
人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう。
あなたが顧みてくださるとは。詩8編4-5節