出エジプト記と民数記には共通の記事が複数存在します。双方の書物が似たような出来事を記している場合、結果もほぼ同じであろうと予想することができるように思われます。
民数記の今朝のテキストでは、民が不満を言った結果、神さまの怒りが宿営を焼き尽くそうと燃え上がりました。「民の不満」というくくりで同じような事件が出エジプト記にも書かれています。それが15章22節以下です。エピソードを要約しますと、神の民はシュルの荒れ野に進みましたがそこには水がありませんでした。なお進んだ先のマラには水があったものの、苦くて飲めなかったのです。そこで民はモーセに向かって不満を言ったのです。すると神さまがモーセに一本の木を示され、彼がそれを水に投げ込むと甘い水になったのでした。
神さまはここでは民数記とは違って手取り足取りで民の不満に対処しておられます。何がどう違うというので民数記の神さまは民の不満に怒りを発せられたのでしょうか。出エジプト記の場合、イスラエルはエジプトから神さまに導かれて脱出し、神さまの奇跡によって葦の海を歩いて渡り、エジプト軍の追手から逃れてシュルの荒れ野に到着したのでした。つまりシナイの荒れ野に到達する前に起こった出来事だったのです。民は律法を受けておらず、神の民としての自覚も無ければわきまえも無かったでしょう。これに対する民数記の出来事は律法受領の後に起こったのです。
マタイの福音書に、あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ、という言葉がありますが、イスラエルは自分たちにとって神さまとはどのような方で自分たちにどれほどのことをして下さったのか身に沁みていたはず。それにも拘わらず不満を口にしたのでした。ここに神さまの怒りを買う原因の一つを見出すのです。