わたしたちが、46節47節の言葉に躓くとすればそれは、徴税人と異邦人が一段低い存在として言及されているように聞こえることかと思います。もちろんイエスさまが彼らを軽蔑しておられた訳ではありません。当時のユダヤ人の間でのいわば常識的な言い習わしを、喩えに用いられたのでした。

 徴税人とは、ローマ帝国からの委託を受けて同胞ユダヤ人から税金を徴収する仕事でした。徴税人には一定額をローマに収めさえすれば残りは自分の所有になる、という特典が与えられたために彼らは大いに不正を働き、経済的には豊かになりました。しかしその代償として、ユダヤ人としての名誉を失い、同胞から罪人というレッテルを貼られ蔑まれるようになっていったのです。

 また異邦人は、厳正な道徳規範を持っていなかったためにそのようなことにうるさく細かいユダヤ人から道徳的、倫理的レベルの低い人間と見なされました。

 そんな彼らにイエスさまはユダヤ人たちに言われるのです。あなたがたが見下げている人々でさえ、愛と敬意のやりとりはする。それは社会生活における潤滑油のようなもので、自分のためのかけ引きに過ぎないではないか。どこが優れているのか、と。

 イエスさまの基準は、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る。この世の次元や常識を遥かに超えて崇高な倫理であり、これを彼らに(私たちに!)求めておられるのです。私たちはこの時点で気づくべきでしょう。私たちは神さまから慈しみと恵みを存分に頂かないことにはイエスさまの命じられることを守ることなど到底不可能だ。それどころか頂いて出来るかも、実は定かではないのだ、と。