今日は触れませんが、19節後半に「一人の従順」という言葉があります。イエスさまが神さまの前にひたすら従順であられたことを言っています。イエスさまの従順といえばまず思い浮かぶのがフィリピ書でしょう。人間の姿で現れへりくだって、死に至るまでそれも十字架の死にいたるまで従順でした。(2:7b-8)パウロは分けても十字架上の死にイエスさまの従順を見ていました。一方ヘブライの記者は、人間イエスに従順を見ていたようです。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。とあります。(5:8)そこである時代の神学者たちはイエスさまの従順を、消極的従順と積極的従順に分けて考えました。ある人などは「キリストの積極的従順に感謝する!」という言葉を残して息を引き取ったと言います。
イエスさまは人として生まれ十字架の死に至る、この世での全生涯を通して神さまに従順であられました。おそらく天に居ます今も変わらぬ従順をもって神さまに仕えておられるのではと想像します。そんなイエスさまの従順に区別をつけられるのかな??それよりもキリスト者こそ自らを顧み、イエスさまの従順から学ぶべきことがあります。自らを「標」としているのかと訝るほどに自己中心が蔓延っているように思えてなりません。それこそが偶像礼拝なのですが…。この世の風が激し過ぎてキリスト者の目まで塞いでしまい真理を覆い隠してしまっているのかも知れません。落ち着いて聖書を読み、心を鎮めて祈ることがますます欠かせません。