今朝のテキストはイエスさまの十字架への歩み出しに位置します。9章51節でその決意を固められたイエスさまはガリラヤ湖の北の町、ベトサイダから南へと下ってエルサレムに至る旅に出られました。
サマリアとガリラヤの境近辺の村に入られたイエスさまを、10人の重い皮膚病に罹患した人々が呼び止める場面から物語は始まります。罹患者たちが遠くからイエスさまに癒しを乞うと(この病気の人は町で普通に暮らすことを禁じられていました。触れると汚れると言われ、共同体から閉め出されていたのです。だから彼らはイエスさまに近寄ることが出来なかったのです。)イエスさまは「祭司の所にいきなさい」と言われました。病気が治ったことを祭司に証明してもらい世間に「この人は治った」と宣言してもらうために、です。まだ癒しを見ていないに拘わらず彼らは祭司の所へと向かいました。「彼らは、そこへ行く途中で清くされた。」とルカは記しています。
イエスさまのお言葉を信じて行動した10人にはちゃんと信仰があった訳です。その内の一人(この人はサマリア人でした)はイエスさまの所へ戻って来て感謝を表しましたが残りの9人は戻って来ませんでした。イエスさまはこのサマリア人の信仰者だけを嘉みされ「あなたの信仰があなたを救った」と仰いました。
ではイエスさまはほかの9人の信仰はお認めにならなかったのでしょうか。奇跡物語を読む時私たち読者はどうしても出来事そのものに心を奪われます。重い皮膚病がたちまち治って子どもの皮膚みたいになるって凄い!聖書の中の人たちもそうだったかも知れません。でもそれでは実はイエスさまが奇跡を起こされる意味がないのです。聖書の時代の人々も現代の私たちも奇跡物語からそこをちゃんと読み取り、奇跡の意味を知る必要があるのです。そうでないと奇跡物語は昔話、作り話になってしまいます。