待降節2週目に入りました。今年のクリスマスの主題は「インマヌエル―神、我らと共に居ます」ですが、インマヌエルという名前を神の民イスラエルが初めて耳にするのはイザヤの預言によってでした。イザヤは「子連れ預言者」と言われます。アハズ王に重要な託宣を告げる会見の場に、彼は主のご命令によって息子のシェアル・ヤシュブ(残りの者は帰ってくる、という意味)を連れて行きました。また二人目の息子には、これも主のご命令でマヘル・シャラル・ハシュ・バズ(分捕りは早く、略奪は速やかに来る)という名をつけています。その子が大きくなるまでにアッシリアによって南王国は圧迫を受けるだろうが、神が共に居ます(インマヌエル)ゆえ、その企ては成功しないとのメッセージが、イザヤの長男、次男の名前だったのです。「インマヌエルよ、あなたは国土を覆い尽くす。(8:8)」苦悩と闇から逃れ得るのは主が共に居ますゆえ。頼るべきは人ではなく神。しかしアハズ王はイザヤの預言を聞き入れませんでした。それでもイザヤの預言は神の民の中で語り継がれていきます。そして700年以上の時を経てナザレのイエスの上に成就することになるのです。
聖書はよく「後ろから読む書物」と言われますが、このような記事を読むにつけその通りだなぁとしみじみ思います。長くて100余年の人の一生が愛おしくいじらしく、でも思わずクスっと笑ってしまう。微細なことで一喜一憂する愚かさも自分に拘る浅はかさも他者に無関心な身勝手も、ま、ご愛嬌。そして自分を握りしめていた手から力を抜き、自分の姿を鳥瞰できるようになっていく。それを成熟というのかもしれません。ちゃんと熟していきたい、です。