余りに過分な一方的な恵み。キリスト者の内に神の「霊」が住んで下さっているという事実を知って驚くと同時に、ちょっとでもお返しがしたいという思いに駆られるクリスチャンは少なくないと思われます。分けても義理人情に篤い日本人であれば。しかし身の程もわきまえずにそのようなことに情熱を燃やすことはゆくゆくのためにも止めたほうが良い。心からのアドバイスです(笑)。
ところでパウロは、そんな破格の恵みを受けた私たちにはひとつの義務があると言います。でも彼の脱線癖でその義務についてのここでの言及はありません。ただその義務は「肉に対して負うものではない」とだけ言い、霊に助けられて肉の仕業を断ち「神の子」とされて生かされるようにと勧めます。
霊と肉を対角にあるものとして比較してきたパウロでしたが14節から17節まではただただ「霊」について語っています。私たちキリスト者は神の霊によって導かれ自分を「神の子」とする霊を受けたのだと言います。つまり私たちキリスト者は「神の子」なのです。そう言われてたちまち相好を崩す人がありますが、大丈夫でしょうか…。(閑話休題)
確かに「神の子」とされたことはすごいことです。奇跡的なことです。私たちはそれ故に天の神さまに「お父さん聞いてください!」と直訴することが出来ます。イエスさまと共同で神さまの栄光の相続人でもあるとパウロは言っています。内に居ます霊も導き手である聖霊もそのことの証人なのだとも。ここまで良いこと尽くめだと返って心配になってしまいます。キリストと共に苦しむなら、という言葉が気になりだします…。