わたしは既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。

 ここでパウロが「それ」と言っているのは「キリストご自身」であり「パウロがキリストを知る」ことであり更に14節の「賞を得る」ことでもあると思われます。キリストと共に十字架につけられている自分、キリストの内にある自分を想像する度にいや未だ私はそこにまでは到達していないなと感じる、とパウロは言います。これは謙遜ではなく素晴らしい目標を目指す人にとっての実感でしょう。

 パウロはキリストに出会う以前の自分はユダヤ教徒として誇りを持ち熱心さにおいても律法を行うことにおいても完璧だと思っていました。でもキリストに出会った今は、本当に素晴らしくて完璧なものはもっと先にあることに気づいたのです。彼は自分はキリスト・イエスに捕らえられている、と言います。この気づきがパウロを励まし迫害されても艱難に遭っても傷つけられ殺されそうになった時も、キリストは自分のために必ず最善をなしてくださるという希望を持ち続けることが出来たでのしょう。だから苦しみのただ中にありながらもいつも喜こぶことが出来たのです。

 後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召してお与えになる賞を得るために目標を目指してひたすら走ること。今なすべきことはこれだとパウロは言います。自分はまだキリストを得たとは思えない、と言いつつも彼に焦りや諦めはありません。あるのは希望です。