パウロはなぜキリストへの確固たる信仰を持つことができたのか。ユダヤ教の律法を捨てることでユダヤ人の反感と憎悪を買いながらも恐れず進んでいく勇気を得たのか。それが19節です。
わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
私は律法に対して死んだ。それ故に律法は私に何の影響も及ぼすことが出来なくなったと言うのです。従って、律法を犯して罪に定められるだろうか、なんて心配もなければユダヤ教徒の顔色を見て忖度する必要もなくなったのだと。堂々と神さまを仰いでひたすら神さまに向かって歩む者となれたのだと。
ローマ書7章6節に、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。とあるように正に「主によって生かされ主に在って生きている人」になったのでした。
上記の19節後半。私は十字架につけられている。ここでも動詞の現在完了形が使われています。十字架につけられた状態がある時から今までずっと続いていることを表しています。私はキリストと共に十字架につけられて死んだままである。続く20節。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。
復活のイエスさまが私の内に生きておられるから私もその命に与って生きてるんだと言うのです。分かるわぁこの感じ!