パウロの、ローマ教会の信徒たちに宛てた手紙文の最後、長い挨拶の部分を読んでおります。パウロがその設立に関与しなかったローマの教会にも彼の友人たちがいました。その一人ひとりに、また家族に彼は「よろしく」と書き送ります。文字通り、もうすぐそちらに行くからね、逢えるね、その意味もあったでしょうが、彼はその友人一人ひとりについて、彼女、彼が、自分にとってどんなに大切であるかをほんの一言ですが、書き添えているのです。これはもちろん当該者宛てのメッセージではありません。ローマの教会に新たに加わった教会員たちに、古くからの会員を紹介する彼の配慮なのです。

 今朝のテキストには9人の個人名と3つの家庭が出て来ます。ご承知のようにこのテキストに限らず、聖書には人物名の羅列がかなりの頻度で出て来ます。筆者はそこに大いなる意味を込めたでしょうが、読者はつい斜め読みや流し読みをしてしまいます。

 クリスチャンになりたての人が聖書の通読を勧められる場合、マタイを飛ばして先ずマルコから、と勧められることがあるかと思います。マタイの福音書が72代に亘る「イエス・キリストの系図」から始まっているので、馴染みのないカタカナの羅列に心が折れて、物語を1行も読まない内から通読をしなくなるだろう。それでは困るから、というのが理由のようです。分かる気もします。でも聖書に無駄な言葉は一つもありません。一つの名前との出会いが人生に新たな意味を加えることだってあり得るのです。