12章10節は、教会員同士、愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。となります。これは教会員同士の愛についての原理的な教えと言えるものです。本当の家族でない者同士を家族のような愛で結ぶ。この「家族」という社会的単位に対しても、結婚制度の諸問題から今は教会においても「神の家族」と言う言葉をほとんど使いません。

 私は元からこの言葉を使いませんでした。私の場合は今申し上げたような家族理解からではありません。人類は血のつながりで子孫が残っていくのですからそれを否定することは出来ないし、否定すること自体が間違いです。肉親の情や親子間の自然な思いやりというものは、理屈抜きの愛ですから、多少歪(いびつ)であっても尊いものではあるのです。

 ただ、教会員同士の関係を「神の家族」と呼びたくないのは、血肉の関係について回る「甘え」とか「身贔屓」とか「馴れ合い」とか、そんなとても排他的なイメージがキリスト教信仰とは相容れない、と思うからです。

 イエスさまは決してどんな人をも差別なさいませんでした。だから教会でもそうでありたいと先ずは願う。そして祈りへと導かれるのです。何故なら、どんなに努力しても完璧に平等で公平な人間関係を誰とでも結ぶこと、これが誰に取っても永遠に不可能だからです。だからパウロは言うのです。次週に出て来る言葉ですが、18節です。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。と。パウロはいつも人間の本質を的確に突いていて、思わず痛い!と思ってしまいます。