ヨーロッパ西部への宣教の夢を一旦置いて、エルサレムに向けて船出しようとしていたパウロたちの元に、ユダヤ人の陰謀の情報がもたらされました。彼らは予定の変更を余儀なくされてしまいます。しかし足止めされたトロアスの街で一行は、神さまの大きなそして慰めに満ちた御業を目撃することになります。人の目に無駄なことさえも神さまは豊かにお用いになることを私たちはここから学びます。トロアスで過ごした1週間の内に巡って来た主の日はシリアに向かって出航する前日でした。
パウロは熱い長い説教を行ったようです。建物の3階の窓辺に座ってそれを聞いていた若者が居眠りをして下に落ちてしまった。即死でした。しかしパウロは「騒ぐな」とみんなを制してから青年を抱き抱えて神さまに祈りました。神さまの奇跡は人を通して現わされます。パウロは祈りそして死んだ青年の中に命を見出したのです。青年は甦りました。全く元の青年に戻ったのです。イエスさまが会堂長ヤイロの娘を起こされた時のように、です。パウロの説教を聞き、青年の甦りを目撃した人たちは「大いに慰められた」のだと、ルカは記しています。
私たちも人生の中で数々の悲劇に遭いますが、そこにイエスさまが居てくださることを信じる時、悲嘆に「意味」があることに気づきます。悲嘆に増して豊かな希望が備えられていることを確信します。それが真のキリスト者に与えられる奇跡であり恵みなのです。曇りなき霊の眼(まなこ)を以てこの世でなく天上の風景を見続けていきたいものです。