現代でも世界史で「捕囚」という言葉が意味するのはほぼ「バビロン捕囚」です。また聖書辞典はもちろんのことパソコンやAIで「捕囚」で検索をかけると筆頭に「バビロン捕囚」が出てきます。それほどバビロン捕囚が特異であったのでしょう。2つの視点から見ていきます。まず神さまの視点に立つと、ご自分の民をその名にふさわしい民に育てなおそうと彼らを艱難の中に落されたのだという解釈です。神さまが捕囚を主導された点で特異です。次にイスラエルの人々の視点に立つとどうか。イスラエルはバビロン捕囚を経験したことで「民族的悔い改め」へと導かれていきました。頑固で自分を曲げなかったイスラエルが、間違っていたのは自分たちだった、と衷心からの悔い改めに至ったのでした。更に重大な出来事は、悔い改めの証しとして自分たちの再信仰告白として、これまでの口頭伝承や古代イスラエルの歴史資料などを統合して「モーセ五書」編み上げたこと、でした。民族的危機的状況から永遠の律法が生まれたのです。ユダヤ教の聖典であるヘブライ聖書すなわち旧約聖書は、私たちキリスト教の正典でもあります。それ故にキリスト者も「バビロン捕囚」から学ぶべきことは決して少なくないのです。