「救いはユダヤ人から来る」のなら何故ユダヤ人は神さまに背いているのか?神さまが正しくないのではないか?パウロはローマ人の中にそんな疑問を持つ論敵がいることを想定して反論を書き綴ります。
彼は神さまがモーセに語られた「私は自分が憐れもうと思う者を憐れみ/慈しもうと思う者を慈しむ」という言葉を引用しました。すべてにおいて神さまの主権が先立つと言うことを言いたいのです。
そうすると論敵は「人の意志や努力でなく神さまの憐れみが先行して人を支配されるなら人は逆らうことが出来ない。(神さまの思いのままなのだから)褒められこそすれ責められるというのはおかしいではないか。」と言うだろう。(確かに!)これに対する答が次の言葉です。
人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が作った者に「どうしてこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
こう言われてしまうと私など口をつぐむしかありません…。
しかしパウロは更に論証を続けます。例えに挙げたのが陶工と粘土の関係でした。神さまは「憐れみの器」と「怒りの器」を自由にお造りになると彼は言います。この世界に害をもたらすと思われる「怒りの器」さえもご自身の力を世界に知らしめるものとして用いられる、「怒りの器」さえ異邦人の救いに役立つ、そのために存在することを耐え忍ばれる、と言うのです。
かつて神さまを知らず「怒りの器」であった私たちを神さまはご自身の自由な意志によって、絶大なる主権によって「慈しみの器」に変えて下さいました。感謝というよりありません。次は私たちがパウロに替わってこの身に起こった奇跡を語り伝える番です。