待降節3週目に入りました。今朝はイザヤ書の終盤、第三イザヤによるといわれる記事から私たちの希望の根拠が何であるか、その希望の根拠をどこに置くのか、を聞いていきます。説教を組み立てながらつい「聖書時代史」とか「聖書歴史年表」を開いてしまいます。まるで参考書を開くことがいけないことのような物言いですがそうではありません。調べたいことそっちのけでつい読みふけってしまう、それがいけないのです。今も危うく・・・。 

イザヤという預言者はBC736年に神さまから預言者としての召しを受けたとされています。“ヤだ、何で私!?”“いやいや若過ぎでしょ”酒舟の中に隠れた人もいました。みんな神さまからの召しを厭がるのです。唯一“ここに私が居ます。私をお遣わし下さい”と歌の文句よろしく応えたのがイザヤでした。イザヤの名前はBC510年の項に「第三イザヤ?」とあるのを最後に年表から消えます。彼は226歳まで生きた…な訳ないのでおそらく弟子たちが師匠の遺志を継いで預言者業を続けたと思われます。3人目の弟子はバビロン捕囚後の神殿再建の時代を生きた人でした。神さまホントにあなたは居られるのでしょう…ね!何度となく訊かずにはいられない状況下を歩んだ預言者でした。預言者業はいつの時代もワリに合わない稼業なのです。いえ、そうでもないのです。私だけ神さまの手の中で温々!と感激する時も実はあるのです。神さまからお駄賃を頂いてしまうコトも ♡ ♡ ♡