預言者マラキが生きた時代、神の民は外観は平和でしたが内実はかなり荒廃し信仰的活力が低下し道徳的にも敗退して社会が混乱していました。

 彼はまず宗教者、信仰者が清められるべきだと語ります。レビ族の人々や宗教指導者たちが正しい信仰に生きることで、それを範とする民衆の信仰もそのように改められ清められていくのだと。宗教改革、信仰復古は真の信仰者から始まっていくものなのです。私たちは現代に生きるキリスト者のひとりとしてマラキの言葉に真摯に耳を傾けなければなりません。

 キリスト教会には、世の見張り番としての働き、世の羅針盤としての働きが託されていると言われます。教会はこの世と世界のあらゆる事柄に対して無関心であってはならないのです。しかしキリスト教会は、私たちの教会はそのように歩んできたでしょうか。ここで改めて私たち現代のキリスト者は自分自身を問われるのです。

 私にとって「教会」とはどういう所であるのか。40年近く前の一般的な教会観は、教会とはこの世と一線を画す場所であった、と思うのです。生活の疲れや人間関係の欠け、罪や悪やその他諸々にまみれてドロドロになった身と心をきれいさっぱり洗い流してくれる場所…みたいな向きがなかったでしょうか。キリスト教会が、キリスト者である私が、社会の課題や世界の痛みを傍観者の立場で眺めていたことへの報いを今受けている。猛省を迫られている。そんな気がしています。神さまは、人間を愛するが故に一人子をさえ惜しまれませんでした。これを語らずにはいられない「はず」なのです。