しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。8節
パウロは「しかし」という強い逆接の接続詞をもって反対者に対する糾弾を始めます。しかしそのまま反対者が見過ごされることはない、と。
浅野淳博という神学者の書かれた本では、呪われるがよい、と言う言葉が「呪われた者たらせよ」と翻訳されています。呪われた者であり続けよ、という意味でしょう。聖書教育誌にもありますように呪われた者とは「献納する」の派生語で、元々は神々の怒りを鎮めるために聖別され、献呈されるいけにえを意味しました。更に9節。
わたしたちが前にも言っておいたように、今またわたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
呪われた者たらせよ。この9節から分かることは、パウロは前回のガラテア訪問の折にある大事なことを言っておいたということです。何を言っておいたのか。自分が教える福音とは「異なる」福音に十分注意するように。また「異なる」福音を携えて教会に入って来ようとする人々を十分警戒するように。パウロは前にも警告を発していたのです。だからガラテアの信徒たちは、そのような者たちが教会に及ぼす悪影響を前から知っていた、理解していた、警戒していたはずでした。それにも拘わらず反対者たちの侵入を許してしまい、影響を受けてしまっている。何ということか。パウロは驚きと苛立ちを禁じ得なかったでしょう。呪われるがよい、呪われた者たらせよ。悲痛な彼の叫びが聞こえてくるようです。