釈義ノートを作成しながら頭の中で新生賛美歌389番が…。昔主イエスの蒔きたまいしいとも小さき命の種。芽生え育ちて地の果てまで、その枝を張る木とはなりぬ。

 今朝のテキストは真にこの歌詞そのままです。説教原稿の作成が乾いた雑巾から更に1滴を絞り出すような苦しみの時であることに変わりはないものの、今回は耳の傍でこの賛美歌が絶えずエールを送ってくれているようで。こんな心楽しい経験をしたのは初めてでした。

 時代と共に神学も神さまの真理を求めて変化し、宣教の言葉も変わっていきます。唯一絶対、聖であり永遠であるお方に向かって進む、相対的なこの世界が変化し続けるのは当然ですが、そして時代の変化に比例してそのスピードは加速するばかりだと少なからず残念に感じている私ですが、そんな中でも過去に聞いたフレーズが甦ることがあります。

 今回賛美歌389番と共になつかしく甦ったのが「神の国の建設」という言葉でした。クリスチャンになりたての頃「キリスト者とは自分がどこから来てどこへ行くかを知っている者だ」と聞かされて驚いたことがあります。そんなこと、思ってもみなかったので羨ましい限りでした。今は幸いにもいくつもの言葉にすることが出来ます。神の国の建設に与る者、というのもひとつです。

―神の国の完成に向かって進む神さまの時間に身を委ね、ほんのわずかながらもイエスさまのみわざに参与させていただく。偶然生まれて大海に果てる川のうたかたではない。神さまの大海原にこの真理ひとつを握り締めて浮かんでいる自分を想像するだけで楽しい―。こういうのを脳天気というのでしょうが。