「祈り」こそ、キリスト者にとって大動脈であり、見えない神さまをどこまで一途に愚直に信じ抜くことが出来るか、自分を捨てて委ね切ることが出来るか、信仰の試金石でもあると思います。神さまと私、という内密な向き合いの中で行われる祈りが、自分の謙遜さを人に見せるパフォーマンスとして用いられるなら、これ以上の欺瞞、偽善はありません。だからこそイエスさまは仰るのです。

だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。6:6

 ここでの報いとは祈りが聞かれるということでしょうか。私たちは多くの願いを神さまに祈りますが、実は私たちが神さまに祈らせられるのではないでしょうか。

 フィリピ書に、あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです(2:13)とあります。祈りが叶えられるのは、神さまがそのように祈らせられるからだと、パウロはいうのです。歎願成就はさておき、祈りの神髄は密室の祈りにあります。

 イエスさまは、信仰者の呼吸とも言われる祈りを、自分自身の誉れのために利用する偽善者に向かっても非難はなさらず、彼らは天上にて得るべき報いを既に地上で受けてしまったと、仰います。だからこそ、隠れたところにおられるあなたの父、隠れたことを見ておられるあなたの父に、人の目から隠されている場所で祈るように、密室の祈りへと導いて下さるのです。