今朝のテキストは、神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたもの(1節b)、この一点を納得した上で読めば、あるいはこれを信仰の秤や物差しにして読めば、すんなりと心に収まります。

 権威者は、神さまによって立てられているのだから、神さまによって創られた私たちがその権威に従うことは、神さまに従うことと同じになります。また権威者に逆らうことが神さまに逆らうことになる、というのも道理、背けば裁かれることもその通りなのです。権威者とは、あなたに善を行わせるために、神に仕える者(4節)とも書かれています。ここでの善とは、目に見える良い業のことです。権威者は、外面の行動に現れる業に関してのみ仕えるのです。

 人皆が善を行えばみんなが安らかで静かな生涯を送ることができるでしょう。権威者はこれを保証するために立てられているのだと、パウロは言うのです。しかし現実の社会は罪悪の巷であることは、昔も今もそうそう変わりはないと思います。だから権威者は剣、すなわち剣に象徴される刑罰の執行権をも有しているのです。「彼は神の怒りの代行者として、死刑執行の権能さえも持っている。それは単なる脅しのための見せかけなどではない」ともパウロは言うです。

 信仰の有る無しに関わらず人は、権威者の目など気にしなくてもよいように、出来るだけ善を行い、出来るだけ悪から遠ざかるよう努めるもの。パウロはしかし、キリスト者に向かっては更に言うのです。それが5節です。怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにもこれに従うべきだ、と。神さまの恵みを享受しているあなたは「良心」つまり内側までも問われるのだ、と。権威者に従うことは、宗教者としての義務でもあるのだと、一歩踏み込んで語るのです。