ヤコブがここに悪い例として取り上げる教会では来会者を身なりによって応対を変えるといった分け隔てが平然と行われていたようです。この時代、身なりを整えているゆとりなどない貧しい人々が大勢いました。そのような人々は弱さや貧しさのためにこの世で人一倍苦しみを負っていました。神さまの慰めや希望を切望し縋るような思いで教会へとやって来たと思うのです。ところが教会の人に、ぞんざいな物言いで迷惑そうに、私の足元にでも座っておれなどと言われたら。そればかりか金の指輪をはめた立派な身なりの人にはへらへらおもねるような態度で接遇しているのを見たとしたら…。貧しい人々は一層惨めな悲しい気持ちになったでしょう。
でも、そんなキリスト教会なんてあり得ない!と言い切ることが出来ないのではないか。ヤコブは神さまのご性質を2つ挙げてこのような教会を厳しく叱責しています。現代の教会にも私たちの教会にも叱責される要因がないとは言えないのです。神さまのご性質を正しく弁えて教会を形成しているか、見かけによるのではない分け隔てが本当にないか、真摯な自己検証が必要です。
多様性の時代と言われる現代。しかし多様性を受け入れることは口で言うほど容易くはありません。「あなたがたに与えられたあの尊い名」。その名が与えられる価値が自分にはあるなどと言えるキリスト者などいません。そんな貧しく弱い私たち。その自覚を持って最後のヤコブの言葉を聞きたいのです。「憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(2:13b)