パウロは、ローマ教会の噂、食べ物や日付のことで揉めていると聞いた。それで、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。と、お節介を承知でお節介をしていることを公言するのです。何故でしょうか。相手を信頼できるからです。感情的になって怒って関係を切ってしまうような、ローマ教会がそんな幼稚で信仰の浅い教会でないことを信じることが出来たからです。彼らが成長したキリスト者だということを、見なくても信じることが出来たのです。聖霊によってそうすることが出来た。私は改めてパウロの言葉に心を掴まれました。15節bから16節です。
それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。
キリスト教会といえど、私たちはキリストの体であるとみんなが自覚しているとはいえど、日々人間関係の中で悩みの尽きない私たちではありませんか。パウロだって、例外ではなかったはずです。でも彼は、出会ったことさえないローマ教会の人々を信頼することが出来ました。だから相手にとって耳の痛いことであるのを分かっていて助言することが出来た。ローマ教会の人たちを信頼することができたからです。聖霊の神さまに自らの一切を委ねた。聖霊に支配され、清められ、使命感に突き動かされてこそ、彼はローマ書簡を認めることが出来たのでした。そのパウロを育て用いられた聖霊なる神さまが今日も今も、私たちと共に居てくださいます。