ニコデモの物語の2回目です。今朝のテキストには、小福音書とか黄金聖句などとも呼ばれる有名な3章16節が含まれていますが、主人公のニコデモは登場しません。筆者のヨハネが16節からゴロッと語調を変えているので、ニコデモが3章16節を聞いたかどうかさえ実は分からないのです。
彼は恐らく14節、15節のイエスさまの言葉を聞いて、旧約聖書の預言のすべてが目の前にいるイエスさまを指していることに気づいたのではなかったかと私は推測しています。気づいたというより聖霊の働きによって気づきに導かれたのだと。現実主義者で想像力に全く乏しくはあっても彼は旧約聖書に精通するファリサイ派でありしかも教師でした。モーセの青銅の蛇の故事と、イエスさまが「これから自分は上げられねばならない」と言われて進み行こうとしておられる十字架、これがバチンと合致した途端すべての謎も悩みも胡散霧消したと思われます。この方が永遠の命そのもの、この方を信じることで神の国に入ることが出来る。彼はその確信を聖霊の働きによって瞬時に得たのだと思うのです。だからヨハネは、ニコデモは3章16節を生きたんだ、そう言いたかったのではなかったか。
想像ばかりになりましたが、3章16節は私の中に物語のインスピレーションをどんどん与えてくれます。何しろ、新約聖書を言い表している言葉なのですから。今回も神さまの愛の大きさに強く打たれました。こんな小さな者にまで100%の愛を注いで下さるという事実は平常心では受け止めきれません。