現代のキリスト者が今朝のテキストを読んで、その意外性に目を見張るとしたら、彼の時代に、女性であっても執事職を担うことができたのか、ということかと思います。(私たちバプテストは驚きませんが。)
牧師職も執事職も男性が担うものであって女性は認めない、といった教会則が現代でもいくつかの教派で生きています。私たちにキリスト教を伝えた米国南部バプテスト連盟とは女性教役者の是非について真っ向から対立し、袂を分かつこととなりました。いわゆる二千年問題です。日本の改革派、長老派系のキリスト教会も女性聖職者を認めていない群れがあると聞きます。
牧師、長老、執事。この3職務はキリストの預言者性、王性、祭司性を表現するものであるので男性に限る、というのが理由だと言われます。確かにイエスさまは地上で生きておられた時には男性でしたから、その体なる教会も男性であるべき、というのも一理あるかとは思いますが、そもそも神さまに性別があるのか、という疑問も湧きます。キリスト教会の伝統を壊すことほど難しいことはないとほとんど諦めムードに入ってしまうのですが、しかし二千年の伝統を誇るカトリックは、20世紀に入ってからの第二バチカン公会議に於いて、大変革を成し遂げました。
神さまの真理は永遠に変わることはありませんが、そこに到達できない人間には、従って永遠の真理には辿り着くことはできません。人とは相対的な存在であるという弁えを持って聖書を読み続け、生かされている時代の風の中でみ言葉を解釈して、一人でも多くの人にキリストの福音を伝える、共に生きる、愛し合う、そしてキリストの平和を作り出していく。私たちキリスト者は、永遠の真理へと手を伸ばしつつ、そういった僕の役割を粛々と果たしながら生涯イエスさまに仕えていく者たちであると、思います。