9節b前半。天におられるわたしたちの父よ。
ある説教者は著作の中で、「この祈りには果てしない遠景と卑近な近景の結合が見て取れる」と書いておられます。イエスさまは、神さまの「超越者のイメージ」と「人間の父親のイメージ」を融合させて一言の祈りの言葉を紡がれたのでした。
続く9節b後半。御名が崇められますように。聖書協会訳聖書は「崇める」を「聖とする」と翻訳しています。御名は神さまを象徴するものです。その御名が、罪人なる人間にどれほど汚され侮られて来たことか。
エゼキエルは預言者の中で何度も「御名が汚された」と記しています。だから何をさておいても先ず神さまの汚名が、罪人の祈りによって灌(すす)がれるべきだ、神さまの名誉が回復されるべきだと、イエスさまは言われるのです。
この言葉を祈る時、罪人である私たちは心を刺されます。神さまを穢(けが)し侮(あなど)ったのが、他ならぬ私だからです。御名が聖なることを祈る時、自分自身の悔い改めや救いへの願いまでも一緒に献げられることになるのです。イエスさまが教えて下さった「主の祈り」を、自分の心として祈る「祈り人」へと変えられて行きたいと思います。
10節。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。この10節は、主の祈りの主旨、中心であると言われます。神さまがこの世界を支配して下さいますように。天上において神さまの主権が既に確立しているように、この世界でも神さまによる支配が確立しますように、と祈るのです。