パウロは、救いの福音を「キリストへの信仰のみ」と語ります。これに対してユダヤ人キリスト者、分けてもユダヤ教の残滓を拭い切れない中途半端な改宗者は、救いは「割礼」と「律法遵守」によると主張しました。割礼と律法遵守はいずれも人間の業であり、結局彼らは自分たちの行いによって救われよう、義とされようとしていることになります。パウロの信仰義認の対角にある主張です。

 パウロは異教から改宗してキリスト者となった人たち、すなわち異邦人キリスト者を悪意をもって惑わそうとする悪しきユダヤ人キリスト者を、あの犬どもと呼びました。当時オリエント(中東と呼ばれる地域)において犬は豚同様穢れた動物だとされていました。しかもユダヤ人たちは、異邦人や異教徒を侮蔑を込めて、犬と呼んだのです。

 パウロは、この蔑称をユダヤ人キリスト者たちに投げ返します。あなたたちこそ犬ではないか、汚れているではないかというのでしょう。キリスト教の人間観は、人は一人の例外もなく神の前に罪人であり汚れた存在である、というものです。さらにこの罪を清めるのは、十字架上にて人類の罪もろとも、ご自身の命を捨てられたキリストを信じる信仰によってのみ救われる、これがキリスト教の信仰です。

 更に言うなら、この十字架の出来事は人の知識や知恵をもって理解することは不可能であり、自分に降られた聖霊によって信じる者へ、信じることができる者へと変えて頂く。これがキリスト教の救いです。パウロは続けます。私たちこそ真の割礼を受けた者です(3)。敢えて割礼と言う言葉を使って、肉の傷に救いの根拠を求める虚しさを教えようというのでしょう。私たちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし肉に頼らないからです(3)。