パウロがいう奥義とは、28節から32節に解説されていることであろうと思われます。私たち異邦人はかつては真の神さまを知らず、勝手気ままに生きていました。それが、イエスさまの福音を知り、信じて神さまの憐れみに浴する者とされました。しかしそれと同時に、神の民イスラエルが頑なになって不従順になってしまっていた。けれどもそんな彼らも神の選民のゆえに、すなわち父祖の信仰の故に、神の賜物と招きとは取り消されない。頑なで不従順な今の姿のままで神さまの憐れみを受ける。パウロは受けていると現在進行形で語っています。今も憐れみを受けているしこれからも受けていくのだと。
少しのタイムラグはあっても、勝手気ままに生きていた罪、不従順の罪の中にある罪人が、神さまの憐れみを受けて、救われると言うことにおいては同じである。すべての人が不従順であり、すべての人がいつしか神さまの憐れみの中に生かされる。これこそが神の奥義なのだ、秘められた計画なのだとパウロはいうのです。
異邦人もイスラエル人も大量に救いに入れられる。なぜなら、神さまが憐れまれるからだ。あなた方異邦人は憐れみを受けている。ユダヤ人も、今は不従順ではあるが、それは憐れみを受けるためにそうなっているのだ。
そして結論に至るのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
すべての人への「神さまの憐れみ」。神さまの秘められたご計画とは、奥義とは、神さまは全ての人を憐れみの内に置いていて下さる、ということでした。それこそが信仰者の復興、すなわち神の民イスラエルの復興なのです。