「言は肉となった」
ヨハネによる福音書1章1-14節
今日から待降節に入ります。イエスさまのお誕生を心待ちにしつつ、この1年を振
り返る日々を意識して大切に過ごしたいものです。心待ちにすることも振り返ること
も気持ちにゆとりがないと出来るものではありません。ゆとりから遠ざかって久しい
私。今年こそはゆとりの待降節を!凝りもせず決意を新たにする今日この頃です。
今年は「イエス・キリスト-降誕と生涯-」という主題でクリスマス・メッセージ
を語らせて頂きます。30日のアフター・クリスマスの礼拝で「私にとってイエスさま
とはどのようなお方であるか」、皆さんの霊の目におぼろげながらも見えることを祈
りつつ、自分の内側の検証も怠らずにと気持ちを引き締めているところです。
今朝の主題は受肉。共観福音書とは趣きを異にするヨハネの福音書から聞きます。
分けてもプロローグとされる1章1節から18節は、初代教会の讃美歌が下敷きにな
っていると言われます。「初めに言があった」「言の内に命があった」「光は闇の中
で輝いている」。情景が目に浮かぶようです。神の独り子の降誕はしかし、実際には
美しさや優雅さ、暖かさや高貴さなどとは対角にありました。ルカはその福音書に記
ています。その子の父は長旅の疲れを癒す宿を見つけることが出来ず、母は冷たく非
衛生な家畜小屋で最初の子を産まなければならなかった、と。ヨハネはこの世に居場
所のない神の独り子を「世は言を認めなかった」「言は、自分の民のところへ来たが
民は受け入れなかった」と語ります。それにしても私たちは、言なるこの方を我が神
と告白し、人生を明け渡してその御足の跡を辿りつつ生きることを喜びとするキリス
と者です。それは実はかなり不思議なこと、特別なことなのかも知れません・・・。
せっきょう・まえせつ2018.12.2