わたしにとって生きるとはキリストであり死ぬことは利益なのです(21)。
時に死の誘惑に持って行かれそうになっても、パウロはその度に思いを翻して生きることを選び取ってきたのでしょう。何故なら、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望してい(20)るから。他者の視線を絶えず気にする人ほど自分が恥をかくことを恐れます。
しかしパウロはそんな些末なことを言っているのではありません。彼は、自分の良心に恥じるような生き方だけはしたくない、すなわちイエスさまに、神さまに見られて恥かしいような生き方だけは断じてしたくない、と言っているのです。生かされるにしても殺されるにしてもどっちに転んだとしても、その私の生き様死に様を以て、イエスさまのお名前が崇められるようでありたい、と言うのです。壮絶な人生観のようでありながら、読む私自身の心が鎮まって来る、読むほどに、パウロが自らの一切を完全にイエスさまに明け渡して自分から手を放して楽しんでいるような気さえするから不思議です。こんな依存ならやってみたい気がするくらい…。
こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう(25)。
そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります(26)。
いつもあなた方と共にいることになる。これは空間的なことを言っているのではありません。クロノスでなくカイロスに生きる。神の時に生きる時にこそ味わうことのできる霊的な交わりを言っているのです。