学者たちが長年研究し続け、メシア誕生の印、星を見出し、旅をし救い主イエス様に
出会い拝んだ物語のように見えるかもしれません。しかし、本当のところは逆ではない
かと思います。預言の言葉を信じる学者たちを神様が見いだしたのです。そして神様の
星に導かれて、その導きに彼らは身を委ねて歩んだのです。古のアブラハムが歩んだ道
と同じ道のりを辿ってイエス様のところに彼らは招かれたのです。“時を超えて、異邦
人の学者たちがアブラハムと同じ道のりを、神様への信仰・期待・宝を携え、困難を乗
り越えひたすら歩んだ、ただただイエス様を礼拝するために”。学者たちの熱い想い、
喜びの大きさが伝わってきますし、神様の先立ち、導きの確かさが示されています。あ
なたの宝のある所には、心もあるからである。マタイ6章21節(口語訳)のイエス様の
言葉です。自分の宝とは、自分が何に価値を置いているかといった心の在り様そのもの
です。私たちは何を大切にしどこに価値を置いて生きているのかを問われています。こ
の学者たちの幼子イエス様への礼拝が象徴的に示すものは、先立つ主の導きに身を委ね
イエス様の前に跪き宝の箱を開け、それぞれがこれまでの人生で大切にしてきた自分の
宝、自分の心を差し出す生き方ではないかと思うのです。