定例祈祷会の聖書研究では、イザヤ書を学んでいます。水曜日は35章でした。34章と対になっていて、イスラエルの遠戚でありながら(エサウの子孫)常に敵対してきたエドムへの神さまの凄まじい裁きが書かれているのと正反対の情景、まるで黙示録の新しい天地が成就したかのような情景が縷々描かれています。

 信仰を頂いている喜びを感じつつも心の隅っこにエドム人が何故ここまで裁かれなければならないのだろうという疑問も湧いてこないではありません。

 旧約聖書のこのような場面を読む時、私は自分がイスラエルの民であること、神さまが私を神の民として選んでくださったことを殊更意識して読むようにと心がけています。
 カナンへの入植は歴史的に見れば侵略かもしれない。でも神の民である以上神さまに問うべきではないと思います。ペトロが後ろから付いてくるヨハネを指して「主よ、この人はどうなるのですか」と問うた時イエスさまは「あなたに何の関係があるか。あなたは私に従いなさい」と仰いました。ヨハネを心配することは、わきまえなく境界線を越えることになるのでしょう。神の民としての分をわきまえる。自己吟味が必要です。