他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。14:4
ここで問題になるのが「あなた」が誰か、ということです。結論から言うと「あなた」とは多数派を占める側に立つ人、強い人のことです。この4節の言葉は「強いあなた」への戒めなのです。少数派を上から目線で心配しているような、その実心の中で軽視するような多数派のあなた。なぜあなたは弱い人を非難したり裁いたりするのでしょうか。それはあたかも召し使いを通しての隣家に対する内政干渉のようなもの。神さまが私たちを受け入れて下さりイエスさまが隣家の召し使いを立たせられるのに、なぜ力もなく権限もないあなたがおせっかいにも隣家のこと、召し使いのことで口を出すか。それは傲慢以外のなにものでもないではありませんか。
6節にある通り、私たちの言動のすべては「主のため」。自分の心の中に「主のため」という熱心と信仰があるなら、安心してあらゆること、隣人のことも召し使いのことも自らのことさえもお任せできるのです。
信仰とは、キリスト者一人ひとりが良心を重んじて神さまの御前に遜ることによって確立していくのです。私たちはそれぞれに多くの違いを持って生まれ、違いを持ったまま成長して現在に至っています。それでいいのです。自分と違うことでイライラするのでなく、多様性を楽しんで認め合おうではありませんか。カラフルな私たちを神さまが愛してくださり「イエスさまを信じる信仰」という一点で結んで下さるのです。