申命記を丁寧に読むと、神さまが最初から伏線を張っておられたのに気づきます。例えば1章19節以下です。スラエルの不服従の故に、神さまが激しく憤ってモーセに言われたのが次の言葉でした。

あなたもそこに入る事はできない。あなたに仕えているヌンの子ヨシュアだけはそこに入ることが出来る。彼を力づけなさい。イスラエルに嗣業の土地を継がせるのは彼である1:37-38

 また3章では、そんな神さまのみ心を知ったモーセがヨシュアを励ましながらも、神さまにこう祈っているのです。

どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せて下さい3:25

 しかし、その祈りは届かなかったのでした。続けてモーセの言葉を読みます。

しかし主は、あなたたちのゆえにわたしに向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった。主はわたしに言われた。「もうよい。この事を二度と口にしてはならない。ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。ヨシュアを任務に就け、彼を力づけ、励ましなさい。彼はこの民の先頭に立って、お前が今見ている土地を彼らに受け継がせるであろう。3:26-28

 神さまを怒らせてしまったモーセは、少しずつ自分自身を宥めては自分の夢を捨てようと務めて来たのではなかったでしょうか。胸が締め付けられる思いがしますが、分を弁える信仰とはこのような徹底した聴き従いではないのか、そう教えられるのです。