8月、9月はエゼキエル書から聞いていきます。紀元前597年の第一次バビロン捕囚によってエルサレム神殿に仕えていた祭司エゼキエルは捕囚民となってバビロンへと移されました。その5年後彼はケバル河畔の開墾地にて神さまから召しを受け預言者となります。
 異国に連行され異教徒たちの嘲りと苦しい生活の中で、イスラエルの人々は「自分たちは神さまから捨てられた」と悲嘆に暮れていました。しかしこの苦難の原因が先祖と自分たちの背信、実は「彼らが神さまを捨てた」からであったことに気づいていませんでした。偶像礼拝とは、主なる神を捨てて他の神に鞍替えするだけをいうのではありません。彼らは主なる神も異教の神も拝んでいたのです。これはあなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。という十戒第1戒に反する契約違反です。
 イスラエルの神さまは、分けても偶像礼拝を忌み嫌われます。しかし神さまから愛され守られていることが当たり前だと考えていた人々にはそれが理解出来ませんでした。そんな彼らを正しい道に導き返す大変な使命を、神さまはエゼキエルに与えられました。神さまの顕現に接して立ち上がれない彼の姿は使命を果たし得ない預言者の象徴そのものです。しかし神に出来ないことは何ひとつない。エゼキエルが最初に行ったことは「この神さまに全幅の信頼を寄せた」ことでした。だから彼は再び立ち上がることが出来たのでした。聖書には、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた、と書かれています。