せっきょう・まえせつ2018.6.3

2018-06-05
「シリア・フェニキアの女」
                   マルコによる福音書7章24-30節
 この物語は、しばしば幼い我が娘の病をイエスさまに癒やしてもらおうとした母親
が機知によって恵みに与るを得た話だと理解されています。でも私は、これは機知や
機転を楽しむものではなく、異邦の女性の信仰から多くを学ぶべき意味深い物語だと
思います。
 女性の懇願に対してイエスさまは「拒否」の態度に出られました。霊肉共に疲れて
おられたのでしょう。十字架への道行きを意識する中、弟子たちが順調に育っている
とは言えず、ユダヤ人たちはイエスさま一行にゾロゾロついて歩きながら福音を受け
入れようとせず、イエスさまの癒やしや奇跡の意味を理解しませんでした。分かって
もらえないと本当にガッカリ…。気落ちして座り込みたくなるものです。イエスさま
はガリラヤを抜けだし、知人の少ない異邦の町で家に閉じこもっておられました。
が、「人々に気づかれてしまった」とあります。鬼ごっこはイエスさまの負けです。
しかしそこでイエスさまは、神の民よりもずっと純粋な信仰を持った異邦人女性との
出会いを果たされたのでした。緊急非常事態の中で、自分の懇願を拒否されても女性
は心を静めて(主の御前にひれ伏す事で)イエスさまのお言葉を注意深く聞き取りま
した。そしてその中に希望を見出したのです。イエスさまが言葉に込められた気持ち
を、女性は正しく忖度したのです。そしてイエスさまに抗うような不作法はせず、返
ってお気持ちに添う語り口で自らの主張を述べたのです。その言葉に、イエスさまは
「参ったなぁ」と言われたかどうか分かりませんが、感心されて女性の願いを聞き届
けられたのでした。
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